三日月の館

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玉縄城(相模国)

登城日  2014年 5月 4日(日)晴
難易度  ☆
場所   神奈川県鎌倉市城廻


最寄駅はJR東海道本線大船駅
西口から出る。
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駅前にあった地図。
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柏尾川沿いを南下。
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しばらく進むと、戸部橋付近に玉縄首塚があります。
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甘糟榎の根元に建つ由緒碑。
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玉縄首塚由来】

今を距る四百四十余歳、大永6年(1526)11月12日、南総の武将里見義弘、鎌倉を攻略せんと欲し、鶴岡八幡宮に火を放ち、府内に乱入せるを知るや、時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)、豪士大船甘糟、渡内の福原両氏と供に、里見の軍勢を此処戸部川畔に邀撃し、合戦数合、之を潰走せしめ鎌府を兵火より護る。
この合戦に於て、甘糟氏以下三十有五人は戦禍の華と散り、福原氏は傷を負ひ、里見勢の死者その数を知らず。
干伐収て後、城主氏時、彼我の首級を交易し、之を葬り塚を築き塔を建て、以て郷関死守の霊を慰め、怨親平等の資養と為し、玉縄首塚と呼称す。
経云我観一切普皆平等。

昭和42年8月

トンネルを抜けて、龍宝寺を目指します。
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説明板。
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【龍宝寺】

宗派 漕洞宗
山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺
建立 16世紀中頃
開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい)
開基 北条綱成(ほうじょうつなしげ)

玉縄三代城主の北条綱成が建立した瑞光院ともいわれる香華院がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。
本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。
また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。
山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。

境内の様子。
この辺りを七騎谷と云う。
殺害された将軍源実朝の首を持って逃れてきた七騎の武士らが一時的にここに身を潜めたことに由来。
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本堂。
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本堂そばに玉縄北条氏供養塔。
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説明板。
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境内に移築された旧石井家住宅。
国の重要文化財
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説明板。
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内部の様子。
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そして、玉縄ふるさと館。
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北条早雲と鎌倉そして玉縄城展」が開催されていました。
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歴代城主。
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昔の地図。
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絵図。
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模型。
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奥にも。
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大船駅付近。
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龍宝寺付近。
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玉縄城で出土したかわらけ。
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龍宝寺から玉縄城への案内板。
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玉縄城遠景。
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ちょっと寄り道。
龍宝寺北隣の諏訪神社へ。
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由緒書。
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【由緒】

この神社は、今からおよそ420年前当時の玉縄城北条綱成公が、軍神の称ある信州諏訪の御名方富命・八坂刀売命2座の神霊を玉縄城内の諏訪壇に勧請したものと伝えられている。
その後、神社は元和年間玉縄城の廃城、さらに幾星霜を経て現在のこの位置に移された。この時すでに鎌倉権五郎景政一門の霊を祀った御霊神社があり、この神社と諏訪神社と合祀され村民の両大社への崇敬あつく、五穀豊穣、村内安全と繁栄を祈願する祭典が毎年行われている。
ちなみに北条綱成公は、黄八幡といわれた有名な武将であったが、天正15年73才で没した。公一門の墓は社殿脇の山頂にある。

昭和63年12月吉日
諏訪神社

登る。
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社殿。
北条綱成一門の墓は、現在龍宝寺供養塔の脇に移されている。
社殿脇の山頂にあった頃は、いつも塔が倒れていて、誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので地元の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたそうです。
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玉縄城へ向かいます。
諏訪神社前の交差点を斜めに。
細い道を進む。
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右へ曲がる。
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この辺りに玉縄番匠屋敷があった。
長屋門が目印。
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七曲坂。
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登る。
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冠木門。
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七曲坂の看板。
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曲がってます。
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見下ろす。
曲輪が段々に連なっているようにも見えた。
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玉縄城掲示板。
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玉縄城の旗。
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さらに登る。
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振り返る。
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シャガ
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玉縄城の入り口が見えてきました。
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また七曲坂を振り返る。
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玉縄城へ入る。
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北側の高台は土塁跡。
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南側には太鼓櫓があった。
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行ってみる。
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植木1号市民緑地になっている太鼓櫓跡。
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説明板。
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説明板にあった太鼓櫓周辺の図。
七曲坂は太鼓櫓の南側を廻り込んでいたようだ。
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覗きこんでみる。
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太鼓櫓跡から本丸を見る。
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太鼓櫓跡の先にも曲輪が連なっていた。
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七曲坂からの入り口へ戻る。
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大手門跡。
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絵図。
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模型で。
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七曲曲輪から本丸を見上げる。
本丸は清泉女学院中学高等学校になっていて中に入れない。
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植木1号市民緑地にあった絵図で。
本丸はドーナツのような土塁で囲まれていた。
昭和30年代半ばまで残っていたそうな。
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七曲曲輪を西へ進む。
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陣屋坂との交差点。
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階段を登る。
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城址碑。
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玉縄城址】
玉縄城は永正9年10月北条早雲の築くところたり。
大永享保の頃は北条氏時之に居り、天文初年より一族北条綱成居城す。
天正18年小田原北条滅亡の際、城主氏勝降伏し後、城は徳川氏の有となり、程なく廃城となりしものなり。

昭和31年3月建
鎌倉友青会

庚申塔
この辺りには円光寺があった。
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坂を南へ下る。
坂の名は陣屋坂。
こちらが大手かな?
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付近の字名は相模陣。
名の由来は、南を守る陣屋があった所とか、江戸時代初期に玉縄藩主松平正綱が陣屋を置いた所とか。
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模型で。
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陣屋坂を登って再び玉縄城へ。
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大手門方面を見る。
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この辺りに堀があったようですが…
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本丸土塁を崩して埋めてしまったのか解らなかった。
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付近の町名は「城廻」。
玉縄城の形状にふさわしい町名。
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何かないかとぐるーっと廻ってみる。
西側の住宅地。
くいちがいの西付近かな?
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西側の城宿稲荷神社から北西を見下ろす。
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本丸の北側を見下ろす。
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玉縄城本丸を北から見る。
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平野家住宅長屋門
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玉縄城の北側の住宅地は「早雲台」。
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校内にある諏訪壇へ行ってみたかったなぁ~。
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また七曲曲輪へ戻る。
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ふあん坂を下る。
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往時から残る坂とか。
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坂の出口。
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久成寺がある。
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境内には、鎌倉幕府三代将軍源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる長尾定景一族の墓がある。
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境内の南にあるこんもりした山は二伝寺砦があったところ。
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模型で。
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その南に支城である高谷トリデ(村岡城)があった。
今は「村岡城址公園」になっている。
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二伝寺の東にある円光寺。
玉縄城廃城後に本丸南から移ってきた。
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境内から玉縄城南側を見る。
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大船駅へ戻る。
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学校建設などで壊しちゃったのはもったいないなぁ~