武田信義館跡(甲斐国)
最寄駅はJR中央本線韮崎駅です。
韮崎駅は七里岩の先端に位置する。
いつもなら丸政でエネルギー補給するところだが、今日はパス。
駅前のNICORI(ニコリ)1階にある観光案内所で情報収集。
JRのガードを潜り南へ歩く。
雲岸寺近くの交差点を曲がり、七里岩を登って行けば韮崎市民俗資料館があるが…
新府城の模型が展示されているので、一度行ってみたいのだが、ここから1.7kmの山道とのことで、こちらもパス。
本町交差点を右折して進んで振り返る。
小林一三生家跡地の看板。
生家は宝塚ファミリーランドに移築され碑が残るのみですが、阪急東宝グループの創始者小林一三はここで生まれたそうです。
七里岩と分れ左折。
韮崎で吉田のうどんを食す。
天かす入れ放題。
めちゃうま
目の前に韮崎市役所。
正面玄関脇に武田信義公の像が建つ。
武田信義は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、甲斐源氏4代当主。
【武田信義について】
武田信義は、大治3年(1128)に生まれ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将である。
戦国時代に信玄・勝頼を輩出した甲斐武田氏は、信義がここ武田の地を治めたことに始まる。
信義は、武田の地に居館(武田信義館跡)と要害城(白山城跡・国史跡)を置き、勢力を拡大していく。
やがて甲斐源氏の惣領となった信義は、治承4年(1180)に以仁王の令旨を受け、信濃国の平氏方を討伐した。
更に富士川の戦いでは、奇襲により平惟盛の軍勢を退却させる。
その後も平氏方追討の主力となり、鎌倉幕府の創設に貢献したのである。
しかし、甲斐源氏の勢力に危機感をもった源頼朝は信義に謀反の疑いをかけ、子息の一条忠頼が謀殺されるなど、晩年の信義は幕府から冷遇されたようである。
願成寺には、信義寄進とされる木造阿弥陀如来及両脇侍像(国重文)や、信義の墓と伝えられる鎌倉時代初期の五輪塔がある。
平成25年3月
韮崎市
(願成寺案内板より)
韮崎駅は七里岩の先端に位置する。
いつもなら丸政でエネルギー補給するところだが、今日はパス。
駅前のNICORI(ニコリ)1階にある観光案内所で情報収集。
JRのガードを潜り南へ歩く。
雲岸寺近くの交差点を曲がり、七里岩を登って行けば韮崎市民俗資料館があるが…
新府城の模型が展示されているので、一度行ってみたいのだが、ここから1.7kmの山道とのことで、こちらもパス。
本町交差点を右折して進んで振り返る。
小林一三生家跡地の看板。
生家は宝塚ファミリーランドに移築され碑が残るのみですが、阪急東宝グループの創始者小林一三はここで生まれたそうです。
七里岩と分れ左折。
韮崎で吉田のうどんを食す。
天かす入れ放題。
めちゃうま
目の前に韮崎市役所。
正面玄関脇に武田信義公の像が建つ。
武田信義は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、甲斐源氏4代当主。
【武田信義について】
武田信義は、大治3年(1128)に生まれ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将である。
戦国時代に信玄・勝頼を輩出した甲斐武田氏は、信義がここ武田の地を治めたことに始まる。
信義は、武田の地に居館(武田信義館跡)と要害城(白山城跡・国史跡)を置き、勢力を拡大していく。
やがて甲斐源氏の惣領となった信義は、治承4年(1180)に以仁王の令旨を受け、信濃国の平氏方を討伐した。
更に富士川の戦いでは、奇襲により平惟盛の軍勢を退却させる。
その後も平氏方追討の主力となり、鎌倉幕府の創設に貢献したのである。
しかし、甲斐源氏の勢力に危機感をもった源頼朝は信義に謀反の疑いをかけ、子息の一条忠頼が謀殺されるなど、晩年の信義は幕府から冷遇されたようである。
願成寺には、信義寄進とされる木造阿弥陀如来及両脇侍像(国重文)や、信義の墓と伝えられる鎌倉時代初期の五輪塔がある。
平成25年3月
韮崎市
(願成寺案内板より)
こちらは韮崎市にゆるキャラ「ニーラ」。
国道20号線を横断し武田橋へ。
釜無川を渡る。
対岸に武田信義の居館があった。
川を渡った所を右折し、少し進んで土手を下りて行く。
まず、願成寺へ向かいます。
願成寺入り口。
右側の願い坂は桜のトンネルで綺麗なんだけれども、左へ。
濃い紅色のしだれ桜。
境内入り口。
山門と山号額について書かれているが、石が立派すぎてピカピカ光って読み辛い。
こっちも。
表面が光るのは困る。
山門。
左側に阿弥陀堂と説明板。
【曹洞宗鳳凰山願成寺】
宝亀2年(771)、権大僧都心休了愚法印により開創され、京都祇園寺の末寺であった。
延長6年(928)、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。
武田信義(1128~1186)武田の荘に館を営み、この寺を祈願所として中興す。
後白河法皇に山号を奉請。
京都の佛師に懇請し造顕した木造阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財)
降って、中世末戦国時代、武田信虎の甥俊虎和尚のとき、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。
俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄2年(1559)2月、甘利住武川衆曽雌対馬守貞能が、木造阿弥陀三尊を寄進している。(本堂安置の市文化財)
天正10年(1582)、織田信長の兵火に伽藍焼火、復興緒についた慶長12年(1607)、寺より出火再度の火災に衰退にひんしたるも、前期2組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸まことに奇瑞と云うべきである。
嘉永15年(1638)、然室応廓和尚を迎え、曹洞宗に改め復興緒につく、万治元年(1658)弟子で当地出身の赫山和尚法燈を嗣ぐや、桔据経営廃れたるを興し、欠けたるを補ひ一山の面目を保つに至る。
即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整えて今日に至る。
この間、廃仏棄釈、不況、戦争等の世相に荒廃余儀なき約1世紀を経過し、現在、境内伽藍の復興整備中なり。
国道20号線を横断し武田橋へ。
釜無川を渡る。
対岸に武田信義の居館があった。
川を渡った所を右折し、少し進んで土手を下りて行く。
まず、願成寺へ向かいます。
願成寺入り口。
右側の願い坂は桜のトンネルで綺麗なんだけれども、左へ。
濃い紅色のしだれ桜。
境内入り口。
山門と山号額について書かれているが、石が立派すぎてピカピカ光って読み辛い。
こっちも。
表面が光るのは困る。
山門。
左側に阿弥陀堂と説明板。
【曹洞宗鳳凰山願成寺】
宝亀2年(771)、権大僧都心休了愚法印により開創され、京都祇園寺の末寺であった。
延長6年(928)、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。
武田信義(1128~1186)武田の荘に館を営み、この寺を祈願所として中興す。
後白河法皇に山号を奉請。
京都の佛師に懇請し造顕した木造阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財)
降って、中世末戦国時代、武田信虎の甥俊虎和尚のとき、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。
俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄2年(1559)2月、甘利住武川衆曽雌対馬守貞能が、木造阿弥陀三尊を寄進している。(本堂安置の市文化財)
天正10年(1582)、織田信長の兵火に伽藍焼火、復興緒についた慶長12年(1607)、寺より出火再度の火災に衰退にひんしたるも、前期2組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸まことに奇瑞と云うべきである。
嘉永15年(1638)、然室応廓和尚を迎え、曹洞宗に改め復興緒につく、万治元年(1658)弟子で当地出身の赫山和尚法燈を嗣ぐや、桔据経営廃れたるを興し、欠けたるを補ひ一山の面目を保つに至る。
即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整えて今日に至る。
この間、廃仏棄釈、不況、戦争等の世相に荒廃余儀なき約1世紀を経過し、現在、境内伽藍の復興整備中なり。
仏足跡。
武田氏累代御霊殿。
累代法号。
反対側のトイレにも武田菱。
本堂。
本堂の西に武田信義の墓。
中央が信義公。
左が夫人、右が乳母姫(13代武田信昌の息女で当山に隠棲して終わる)。
七里岩を見る。
御朱印。
願成寺の北西に武田信義館があった。
館跡。
中に説明板。
韮崎市指定史跡
【武田信義館跡】
武田の里は甲斐源氏惣領武田氏発祥の地である。
今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
治承4年(1180)高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起し、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治2年(1186)病没したとされる(享年59歳)。
しかし、建久元年(1190)頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5年(1194)の東大寺造営や、小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以後も生存していた可能性がある。
墓は鳳凰山願成寺にある。
信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ250㎡の地で、今は民家・耕地が入りまじっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。
平成20年(2008)には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。
平成25年3月
韮崎市教育委員会
武田氏累代御霊殿。
累代法号。
本堂。
本堂の西に武田信義の墓。
中央が信義公。
左が夫人、右が乳母姫(13代武田信昌の息女で当山に隠棲して終わる)。
七里岩を見る。
御朱印。
願成寺の北西に武田信義館があった。
館跡。
中に説明板。
韮崎市指定史跡
【武田信義館跡】
武田の里は甲斐源氏惣領武田氏発祥の地である。
今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
治承4年(1180)高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起し、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治2年(1186)病没したとされる(享年59歳)。
しかし、建久元年(1190)頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5年(1194)の東大寺造営や、小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以後も生存していた可能性がある。
墓は鳳凰山願成寺にある。
信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ250㎡の地で、今は民家・耕地が入りまじっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。
平成20年(2008)には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。
平成25年3月
韮崎市教育委員会
神山町付近の名所・旧蹟分布図。
土塁の一部とはここらしい。
遠くに新府城が見えた。
武田信義館を後にする。
南西へ進み、白山城の麓へ。
武田八幡宮二の鳥居。
説明板。
寛政元年(1789)に建てられた両部鳥居。
参道を進む。
ここからも新府城が良く見えた。
参道の突き当たりに武田八幡宮。
手前に一石百観音石像。
この地は武田八幡宮神宮寺跡地と云う。
石鳥居。
裏から。
柱はエンタシスのように太い。
隋神門。
横から見る。
隋神門の脇に手水舎と社務所。
御朱印はここ。
登って行く。
隋神門を振り返る。
さらに登って行く。
神楽殿。
角度を変えて見る。
もう一段登る。
神楽殿を振り返る。
拝殿。
奥に本殿と末社。
本殿説明板。
武田勝頼公夫人願文が刻まれた碑。
為朝神社へ。
途中で白山城登城口があったが、熊注意の看板に怯えて素通り。
白山城説明板。
武田信義館の要害として築かれたと云う。
行きたかったのだが…
こんなに厳重な金網が築かれる程だと、さらに怖くなる。
すぐに為朝神社が見えてきた。
為朝神社。
説明板。
武田信義が祀ったと云う。
中に源為朝の像。
武勇に優れ、大暴れした後追討を受け、琉球の王になったと云う伝承を持つ。
御朱印。
少し下りた所で、また新府城が見えた。
白山城登りたかったなぁ~
春に訪れたい武田信義館でした。
土塁の一部とはここらしい。
遠くに新府城が見えた。
武田信義館を後にする。
南西へ進み、白山城の麓へ。
武田八幡宮二の鳥居。
説明板。
参道を進む。
ここからも新府城が良く見えた。
参道の突き当たりに武田八幡宮。
手前に一石百観音石像。
この地は武田八幡宮神宮寺跡地と云う。
石鳥居。
裏から。
柱はエンタシスのように太い。
隋神門。
横から見る。
隋神門の脇に手水舎と社務所。
御朱印はここ。
登って行く。
隋神門を振り返る。
さらに登って行く。
神楽殿。
角度を変えて見る。
もう一段登る。
神楽殿を振り返る。
拝殿。
奥に本殿と末社。
本殿説明板。
為朝神社へ。
途中で白山城登城口があったが、熊注意の看板に怯えて素通り。
白山城説明板。
武田信義館の要害として築かれたと云う。
こんなに厳重な金網が築かれる程だと、さらに怖くなる。
すぐに為朝神社が見えてきた。
為朝神社。
説明板。
武田信義が祀ったと云う。
武勇に優れ、大暴れした後追討を受け、琉球の王になったと云う伝承を持つ。
御朱印。
少し下りた所で、また新府城が見えた。
白山城登りたかったなぁ~
春に訪れたい武田信義館でした。