谷戸城(甲斐国)
行き方が解らなかったので、神田の大糸桜から歩きました。
約15分で大井ヶ森口留番所跡に到着。
説明板。
ここまでは小淵沢駅からバスで来れます。
途中で富士山が見えました。
約1時間で谷戸城下町に到着。
通りの名はこの先に金田一春彦氏から蔵書2万点余りの寄贈を受けて図書館が建てらいることからのようです。
泉中学校の南側の町屋の坂を登って行く。
武田信虎の頃に建てられた道喜院。
山号は城向山。
境内のしだれ桜がきれいでした。
南側が安楽寺。
ここから谷戸城が見えました。
北に八ヶ岳が聳えています。
大手へ登って行く。
まずは大手虎口前にある北杜市考古資料館へ。
資料館には模型もあります。
ここでパンフレットを貰う。
2ページ目。
3ページ目と4ページ目。
5ページ目。
6ページ目。
資料館を出て一旦北へ。
北方形居館跡。
再び大手へ戻る。
城址碑。
脇の説明板。
大手。
説明板。
模型ではここ。
横堀。
説明板。
東へ進むと北空堀がある。
東側で北竪堀となる。
説明板。
模型で。
急な斜面を転げ落ちないように進むと南竪堀。
説明板。
南東郭。
説明板。
南帯郭二を進む。
南帯郭二はまだ続く。
振り返る。
南帯郭二の西端。
階段を登って南帯郭一を進む。
南帯郭一は搦め手経由で西帯郭一に繋がっている。
三の郭への階段を登る。
模型で。
二・三の郭南側虎口。
説明板。
三の郭を見る。
二の郭を見る。
空堀と土塁が廻る。
土塁上から二の郭を見渡す。
東側の五の郭を見下ろす。
説明板。
五の郭から二の郭を見る。
模型で。
四の郭の土塁。
東帯郭。
説明板はピンボケ。
五の郭をもう一度見る。
再び四の郭の土塁を見る。
四の郭。
説明板。
二・三の郭北側虎口の方を見る。
五の郭の方を振り返る。
模型で。
二・三の郭北側虎口。
帯郭。
説明板。
虎口から二の郭を見る。
三の郭を見る。
一の郭を見る。
説明板。
二の郭。
説明板。
模型で。
谷戸城は桜の名所とのことだが、そう感じられなかった。
一の郭土塁。
一の郭へ。
一の郭虎口。
説明板。
一の郭。
説明板。
一の郭土塁。
三の郭への虎口。
三の郭の様子。
土塁と空堀が廻る。
一の郭を見る。
説明板。
模型で。
戻る。
四の郭へ。
四の郭から大手へ戻る。
再び大手。
西帯郭を進む。
説明板。
西帯郭の西側は六の郭。
六の郭にも土塁が残っている。
模型で。
六の郭から西帯郭を見上げる。
搦め手口へ。
竪堀。
ここで曲がる。
石垣跡。
搦め手虎口。
説明板。
搦め手口の前に位置する丸山。
モミの木が目印。
段々になっている。
模型で。
城下塁跡。
南方形居館跡。
南側から見ると高い山に見える。
谷戸城を後にする。
安楽寺の南側。
谷戸氏の屋敷があったと云う。
西へ行くと逸見神社。
谷戸城の鎮守社。
ここにバス停があった。
バスに乗ってJR長坂駅まで行きました。
桜の名所と聞いて来てみたが、国指定史跡ですがあまり見応えなかったなぁ~
約15分で大井ヶ森口留番所跡に到着。
説明板。
途中で富士山が見えました。
約1時間で谷戸城下町に到着。
通りの名はこの先に金田一春彦氏から蔵書2万点余りの寄贈を受けて図書館が建てらいることからのようです。
泉中学校の南側の町屋の坂を登って行く。
武田信虎の頃に建てられた道喜院。
山号は城向山。
境内のしだれ桜がきれいでした。
南側が安楽寺。
ここから谷戸城が見えました。
北に八ヶ岳が聳えています。
大手へ登って行く。
まずは大手虎口前にある北杜市考古資料館へ。
資料館には模型もあります。
ここでパンフレットを貰う。
2ページ目。
北方形居館跡。
再び大手へ戻る。
城址碑。
脇の説明板。
説明板。
横堀。
説明板。
東側で北竪堀となる。
説明板。
急な斜面を転げ落ちないように進むと南竪堀。
説明板。
説明板。
南帯郭二はまだ続く。
振り返る。
南帯郭二の西端。
階段を登って南帯郭一を進む。
南帯郭一は搦め手経由で西帯郭一に繋がっている。
三の郭への階段を登る。
模型で。
二・三の郭南側虎口。
説明板。
二の郭を見る。
空堀と土塁が廻る。
土塁上から二の郭を見渡す。
東側の五の郭を見下ろす。
説明板。
模型で。
四の郭の土塁。
東帯郭。
説明板はピンボケ。
五の郭をもう一度見る。
再び四の郭の土塁を見る。
四の郭。
説明板。
五の郭の方を振り返る。
模型で。
二・三の郭北側虎口。
帯郭。
説明板。
三の郭を見る。
一の郭を見る。
説明板。
説明板。
谷戸城は桜の名所とのことだが、そう感じられなかった。
一の郭土塁。
一の郭へ。
一の郭虎口。
説明板。
説明板。
三の郭への虎口。
三の郭の様子。
土塁と空堀が廻る。
一の郭を見る。
説明板。
戻る。
四の郭へ。
四の郭から大手へ戻る。
再び大手。
西帯郭を進む。
説明板。
六の郭にも土塁が残っている。
模型で。
六の郭から西帯郭を見上げる。
搦め手口へ。
竪堀。
ここで曲がる。
石垣跡。
搦め手虎口。
説明板。
モミの木が目印。
段々になっている。
模型で。
城下塁跡。
南方形居館跡。
南側から見ると高い山に見える。
谷戸城を後にする。
安楽寺の南側。
谷戸氏の屋敷があったと云う。
西へ行くと逸見神社。
谷戸城の鎮守社。
ここにバス停があった。
バスに乗ってJR長坂駅まで行きました。
桜の名所と聞いて来てみたが、国指定史跡ですがあまり見応えなかったなぁ~
浄古寺城(甲斐国)
乙ヶ妻のしだれ桜から帰り道。
長い下り坂なので、レンタサイクルを漕がずに楽して帰れたのだが、
どうしても西側の台地に見える大きな桜が気になって寄ってしまった。
何か呼んでいるようだったので…
まず、目指したのが西念寺。
お地蔵さまがお出迎え。
いつもにこにこ見てござる。
脇に立派な枝垂れ桜。
南から。
東南から。
東から。
この桜だったのかな?
もう一つ南にも見えたので行ってみたが…
な~んだ、一本桜じゃないんだ。
ガッカリして帰ろうとした時、見つけてしまった!
長い下り坂なので、レンタサイクルを漕がずに楽して帰れたのだが、
どうしても西側の台地に見える大きな桜が気になって寄ってしまった。
何か呼んでいるようだったので…
まず、目指したのが西念寺。
お地蔵さまがお出迎え。
いつもにこにこ見てござる。
南から。
東南から。
東から。
この桜だったのかな?
もう一つ南にも見えたので行ってみたが…
な~んだ、一本桜じゃないんだ。
ガッカリして帰ろうとした時、見つけてしまった!
どこ?
ここが説明文にある城内鎮守の八幡社かな?
境内へ入るともう一枚説明板があった。
【中牧城跡(浄古寺城)】
国指定文化財
武田信玄の時代にこの地を北国防備のため天文17年(1548)に土地の豪族大村氏に命じて築城されたもので、大村加賀守、伊賀守が城主となるが、天正10年(1582)武田勝頼滅亡のあと中牧城兵は徳川家康に反抗して破れ、家康入国後は家臣の内藤三左衛門が城代となり、天正17年(1589)に築城修復をしている。
城の規模は東西約330m、南北約430mで本丸と天守代(台)跡、二の丸、三の丸、大手門、搦手門跡や城内鎮守八幡社周囲の塹壕も一部分は昔を偲ぶことが出来る。
附近には城にまつわる地名で屋敷、堀の内、替地、請地、田屋(胎屋)堀端などがある。
平成16年12月
牧丘町教育委員会
ここが説明文にある城内鎮守の八幡社かな?
境内へ入るともう一枚説明板があった。
【中牧城跡(浄古寺城)】
国指定文化財
武田信玄の時代にこの地を北国防備のため天文17年(1548)に土地の豪族大村氏に命じて築城されたもので、大村加賀守、伊賀守が城主となるが、天正10年(1582)武田勝頼滅亡のあと中牧城兵は徳川家康に反抗して破れ、家康入国後は家臣の内藤三左衛門が城代となり、天正17年(1589)に築城修復をしている。
城の規模は東西約330m、南北約430mで本丸と天守代(台)跡、二の丸、三の丸、大手門、搦手門跡や城内鎮守八幡社周囲の塹壕も一部分は昔を偲ぶことが出来る。
附近には城にまつわる地名で屋敷、堀の内、替地、請地、田屋(胎屋)堀端などがある。
平成16年12月
牧丘町教育委員会
周辺図によると、ここはすでに城内で二の丸のようだ。
二の丸を見渡す。
天守台の礎石ってどれ?
説明板を見たら、急に本丸の石垣に見えてきた。
(土塁より成り、石壁は見あたらないと書いてあるが…)
本丸へ向かう。
この道は内堀跡かな?
ブドウ畑になっているので斜面が緩やかだが、往時は急だったんだろう。
本丸の様子。
桃かな。
おー、周囲を土塁が廻っている!
失礼しま〰す!
伝天守台。
碑が建っています。
碑から本丸を見渡す。
碑から南西方向を見下ろす。
碑から内堀を見下ろす。
八幡社の周辺図だと、天守台は本丸の北西隅なんだけど…
戻って本丸を北側から出る。
内堀。
右側。
左側。
内堀沿いを西へ進む。
本丸北西隅。
こちらに天守が建っていたのかな?
本丸西側内堀。
遠くに天守台跡の碑が建つ櫓台跡が見える。
さらに西側の外堀跡(鳥ノ口堰)を見下ろす。
遠くに西念寺の枝垂れ桜が見えました。
北側の曲輪にも土塁が廻っている。
もう一度本丸内堀西側を見る。
北側を見る。
本丸を出た所に戻る。
北の曲輪へ。
北側の土塁上。
土塁上から北の曲輪を見渡す。
土塁の北側の道は深い堀切。
城はここまでか。
遠くに乙ヶ妻のしだれ桜が見えた。
東麓へ下りて行く。
東側の切岸。
東麓から見上げる。
再び八幡社目指して登って行く。
眼下は鰻堀跡。
本丸と道路の間は馬出し。
八幡社のある二の丸へ戻って来ました。
八幡社の東側の外堀跡を進む。
外堀跡から八幡社を見る。
二の丸東側を進む。
二の丸東南隅。
西へ進む。
少し進んで振り返る。
西を見る。
この辺りから二の丸と三の丸の間の外堀は不明瞭になる。
突き当たりの民家の裏手からまた外堀跡が復活するが、入れないので本丸へ戻る。
本丸から二の丸を見下ろす。
二の丸から本丸を見る。
道路の左側に土塁跡。
二の丸から下りてきた所。
本丸西側外堀跡(鳥ノ口堰)。
最後に八幡社を南下した所にある城古寺公民館。
ここが大手かな。
公民館の南側に宝篋印塔。
説明板。
思わぬ発見だった浄古寺城でした。
天守台の礎石ってどれ?
説明板を見たら、急に本丸の石垣に見えてきた。
(土塁より成り、石壁は見あたらないと書いてあるが…)
本丸へ向かう。
この道は内堀跡かな?
ブドウ畑になっているので斜面が緩やかだが、往時は急だったんだろう。
本丸の様子。
桃かな。
おー、周囲を土塁が廻っている!
失礼しま〰す!
伝天守台。
碑が建っています。
碑から本丸を見渡す。
碑から南西方向を見下ろす。
碑から内堀を見下ろす。
八幡社の周辺図だと、天守台は本丸の北西隅なんだけど…
戻って本丸を北側から出る。
内堀。
右側。
左側。
内堀沿いを西へ進む。
本丸北西隅。
こちらに天守が建っていたのかな?
本丸西側内堀。
遠くに天守台跡の碑が建つ櫓台跡が見える。
さらに西側の外堀跡(鳥ノ口堰)を見下ろす。
遠くに西念寺の枝垂れ桜が見えました。
北側の曲輪にも土塁が廻っている。
もう一度本丸内堀西側を見る。
北側を見る。
本丸を出た所に戻る。
北の曲輪へ。
北側の土塁上。
土塁上から北の曲輪を見渡す。
土塁の北側の道は深い堀切。
城はここまでか。
遠くに乙ヶ妻のしだれ桜が見えた。
東麓へ下りて行く。
東側の切岸。
東麓から見上げる。
再び八幡社目指して登って行く。
眼下は鰻堀跡。
本丸と道路の間は馬出し。
八幡社のある二の丸へ戻って来ました。
八幡社の東側の外堀跡を進む。
外堀跡から八幡社を見る。
二の丸東側を進む。
二の丸東南隅。
西へ進む。
少し進んで振り返る。
西を見る。
この辺りから二の丸と三の丸の間の外堀は不明瞭になる。
突き当たりの民家の裏手からまた外堀跡が復活するが、入れないので本丸へ戻る。
本丸から二の丸を見下ろす。
二の丸から本丸を見る。
道路の左側に土塁跡。
二の丸から下りてきた所。
本丸西側外堀跡(鳥ノ口堰)。
最後に八幡社を南下した所にある城古寺公民館。
ここが大手かな。
公民館の南側に宝篋印塔。
説明板。
(おまけ)
武田信義館跡(甲斐国)
最寄駅はJR中央本線韮崎駅です。
韮崎駅は七里岩の先端に位置する。
いつもなら丸政でエネルギー補給するところだが、今日はパス。
駅前のNICORI(ニコリ)1階にある観光案内所で情報収集。
JRのガードを潜り南へ歩く。
雲岸寺近くの交差点を曲がり、七里岩を登って行けば韮崎市民俗資料館があるが…
新府城の模型が展示されているので、一度行ってみたいのだが、ここから1.7kmの山道とのことで、こちらもパス。
本町交差点を右折して進んで振り返る。
小林一三生家跡地の看板。
生家は宝塚ファミリーランドに移築され碑が残るのみですが、阪急東宝グループの創始者小林一三はここで生まれたそうです。
七里岩と分れ左折。
韮崎で吉田のうどんを食す。
天かす入れ放題。
めちゃうま
目の前に韮崎市役所。
正面玄関脇に武田信義公の像が建つ。
武田信義は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、甲斐源氏4代当主。
【武田信義について】
武田信義は、大治3年(1128)に生まれ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将である。
戦国時代に信玄・勝頼を輩出した甲斐武田氏は、信義がここ武田の地を治めたことに始まる。
信義は、武田の地に居館(武田信義館跡)と要害城(白山城跡・国史跡)を置き、勢力を拡大していく。
やがて甲斐源氏の惣領となった信義は、治承4年(1180)に以仁王の令旨を受け、信濃国の平氏方を討伐した。
更に富士川の戦いでは、奇襲により平惟盛の軍勢を退却させる。
その後も平氏方追討の主力となり、鎌倉幕府の創設に貢献したのである。
しかし、甲斐源氏の勢力に危機感をもった源頼朝は信義に謀反の疑いをかけ、子息の一条忠頼が謀殺されるなど、晩年の信義は幕府から冷遇されたようである。
願成寺には、信義寄進とされる木造阿弥陀如来及両脇侍像(国重文)や、信義の墓と伝えられる鎌倉時代初期の五輪塔がある。
平成25年3月
韮崎市
(願成寺案内板より)
韮崎駅は七里岩の先端に位置する。
いつもなら丸政でエネルギー補給するところだが、今日はパス。
駅前のNICORI(ニコリ)1階にある観光案内所で情報収集。
JRのガードを潜り南へ歩く。
雲岸寺近くの交差点を曲がり、七里岩を登って行けば韮崎市民俗資料館があるが…
新府城の模型が展示されているので、一度行ってみたいのだが、ここから1.7kmの山道とのことで、こちらもパス。
本町交差点を右折して進んで振り返る。
小林一三生家跡地の看板。
生家は宝塚ファミリーランドに移築され碑が残るのみですが、阪急東宝グループの創始者小林一三はここで生まれたそうです。
七里岩と分れ左折。
韮崎で吉田のうどんを食す。
天かす入れ放題。
めちゃうま
目の前に韮崎市役所。
正面玄関脇に武田信義公の像が建つ。
武田信義は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、甲斐源氏4代当主。
【武田信義について】
武田信義は、大治3年(1128)に生まれ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将である。
戦国時代に信玄・勝頼を輩出した甲斐武田氏は、信義がここ武田の地を治めたことに始まる。
信義は、武田の地に居館(武田信義館跡)と要害城(白山城跡・国史跡)を置き、勢力を拡大していく。
やがて甲斐源氏の惣領となった信義は、治承4年(1180)に以仁王の令旨を受け、信濃国の平氏方を討伐した。
更に富士川の戦いでは、奇襲により平惟盛の軍勢を退却させる。
その後も平氏方追討の主力となり、鎌倉幕府の創設に貢献したのである。
しかし、甲斐源氏の勢力に危機感をもった源頼朝は信義に謀反の疑いをかけ、子息の一条忠頼が謀殺されるなど、晩年の信義は幕府から冷遇されたようである。
願成寺には、信義寄進とされる木造阿弥陀如来及両脇侍像(国重文)や、信義の墓と伝えられる鎌倉時代初期の五輪塔がある。
平成25年3月
韮崎市
(願成寺案内板より)
こちらは韮崎市にゆるキャラ「ニーラ」。
国道20号線を横断し武田橋へ。
釜無川を渡る。
対岸に武田信義の居館があった。
川を渡った所を右折し、少し進んで土手を下りて行く。
まず、願成寺へ向かいます。
願成寺入り口。
右側の願い坂は桜のトンネルで綺麗なんだけれども、左へ。
濃い紅色のしだれ桜。
境内入り口。
山門と山号額について書かれているが、石が立派すぎてピカピカ光って読み辛い。
こっちも。
表面が光るのは困る。
山門。
左側に阿弥陀堂と説明板。
【曹洞宗鳳凰山願成寺】
宝亀2年(771)、権大僧都心休了愚法印により開創され、京都祇園寺の末寺であった。
延長6年(928)、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。
武田信義(1128~1186)武田の荘に館を営み、この寺を祈願所として中興す。
後白河法皇に山号を奉請。
京都の佛師に懇請し造顕した木造阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財)
降って、中世末戦国時代、武田信虎の甥俊虎和尚のとき、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。
俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄2年(1559)2月、甘利住武川衆曽雌対馬守貞能が、木造阿弥陀三尊を寄進している。(本堂安置の市文化財)
天正10年(1582)、織田信長の兵火に伽藍焼火、復興緒についた慶長12年(1607)、寺より出火再度の火災に衰退にひんしたるも、前期2組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸まことに奇瑞と云うべきである。
嘉永15年(1638)、然室応廓和尚を迎え、曹洞宗に改め復興緒につく、万治元年(1658)弟子で当地出身の赫山和尚法燈を嗣ぐや、桔据経営廃れたるを興し、欠けたるを補ひ一山の面目を保つに至る。
即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整えて今日に至る。
この間、廃仏棄釈、不況、戦争等の世相に荒廃余儀なき約1世紀を経過し、現在、境内伽藍の復興整備中なり。
国道20号線を横断し武田橋へ。
釜無川を渡る。
対岸に武田信義の居館があった。
川を渡った所を右折し、少し進んで土手を下りて行く。
まず、願成寺へ向かいます。
願成寺入り口。
右側の願い坂は桜のトンネルで綺麗なんだけれども、左へ。
濃い紅色のしだれ桜。
境内入り口。
山門と山号額について書かれているが、石が立派すぎてピカピカ光って読み辛い。
こっちも。
表面が光るのは困る。
山門。
左側に阿弥陀堂と説明板。
【曹洞宗鳳凰山願成寺】
宝亀2年(771)、権大僧都心休了愚法印により開創され、京都祇園寺の末寺であった。
延長6年(928)、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。
武田信義(1128~1186)武田の荘に館を営み、この寺を祈願所として中興す。
後白河法皇に山号を奉請。
京都の佛師に懇請し造顕した木造阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財)
降って、中世末戦国時代、武田信虎の甥俊虎和尚のとき、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。
俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄2年(1559)2月、甘利住武川衆曽雌対馬守貞能が、木造阿弥陀三尊を寄進している。(本堂安置の市文化財)
天正10年(1582)、織田信長の兵火に伽藍焼火、復興緒についた慶長12年(1607)、寺より出火再度の火災に衰退にひんしたるも、前期2組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸まことに奇瑞と云うべきである。
嘉永15年(1638)、然室応廓和尚を迎え、曹洞宗に改め復興緒につく、万治元年(1658)弟子で当地出身の赫山和尚法燈を嗣ぐや、桔据経営廃れたるを興し、欠けたるを補ひ一山の面目を保つに至る。
即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整えて今日に至る。
この間、廃仏棄釈、不況、戦争等の世相に荒廃余儀なき約1世紀を経過し、現在、境内伽藍の復興整備中なり。
仏足跡。
武田氏累代御霊殿。
累代法号。
反対側のトイレにも武田菱。
本堂。
本堂の西に武田信義の墓。
中央が信義公。
左が夫人、右が乳母姫(13代武田信昌の息女で当山に隠棲して終わる)。
七里岩を見る。
御朱印。
願成寺の北西に武田信義館があった。
館跡。
中に説明板。
韮崎市指定史跡
【武田信義館跡】
武田の里は甲斐源氏惣領武田氏発祥の地である。
今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
治承4年(1180)高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起し、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治2年(1186)病没したとされる(享年59歳)。
しかし、建久元年(1190)頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5年(1194)の東大寺造営や、小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以後も生存していた可能性がある。
墓は鳳凰山願成寺にある。
信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ250㎡の地で、今は民家・耕地が入りまじっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。
平成20年(2008)には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。
平成25年3月
韮崎市教育委員会
武田氏累代御霊殿。
累代法号。
本堂。
本堂の西に武田信義の墓。
中央が信義公。
左が夫人、右が乳母姫(13代武田信昌の息女で当山に隠棲して終わる)。
七里岩を見る。
御朱印。
願成寺の北西に武田信義館があった。
館跡。
中に説明板。
韮崎市指定史跡
【武田信義館跡】
武田の里は甲斐源氏惣領武田氏発祥の地である。
今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
治承4年(1180)高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起し、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治2年(1186)病没したとされる(享年59歳)。
しかし、建久元年(1190)頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5年(1194)の東大寺造営や、小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以後も生存していた可能性がある。
墓は鳳凰山願成寺にある。
信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ250㎡の地で、今は民家・耕地が入りまじっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。
平成20年(2008)には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。
平成25年3月
韮崎市教育委員会
神山町付近の名所・旧蹟分布図。
土塁の一部とはここらしい。
遠くに新府城が見えた。
武田信義館を後にする。
南西へ進み、白山城の麓へ。
武田八幡宮二の鳥居。
説明板。
寛政元年(1789)に建てられた両部鳥居。
参道を進む。
ここからも新府城が良く見えた。
参道の突き当たりに武田八幡宮。
手前に一石百観音石像。
この地は武田八幡宮神宮寺跡地と云う。
石鳥居。
裏から。
柱はエンタシスのように太い。
隋神門。
横から見る。
隋神門の脇に手水舎と社務所。
御朱印はここ。
登って行く。
隋神門を振り返る。
さらに登って行く。
神楽殿。
角度を変えて見る。
もう一段登る。
神楽殿を振り返る。
拝殿。
奥に本殿と末社。
本殿説明板。
武田勝頼公夫人願文が刻まれた碑。
為朝神社へ。
途中で白山城登城口があったが、熊注意の看板に怯えて素通り。
白山城説明板。
武田信義館の要害として築かれたと云う。
行きたかったのだが…
こんなに厳重な金網が築かれる程だと、さらに怖くなる。
すぐに為朝神社が見えてきた。
為朝神社。
説明板。
武田信義が祀ったと云う。
中に源為朝の像。
武勇に優れ、大暴れした後追討を受け、琉球の王になったと云う伝承を持つ。
御朱印。
少し下りた所で、また新府城が見えた。
白山城登りたかったなぁ~
春に訪れたい武田信義館でした。
土塁の一部とはここらしい。
遠くに新府城が見えた。
武田信義館を後にする。
南西へ進み、白山城の麓へ。
武田八幡宮二の鳥居。
説明板。
参道を進む。
ここからも新府城が良く見えた。
参道の突き当たりに武田八幡宮。
手前に一石百観音石像。
この地は武田八幡宮神宮寺跡地と云う。
石鳥居。
裏から。
柱はエンタシスのように太い。
隋神門。
横から見る。
隋神門の脇に手水舎と社務所。
御朱印はここ。
登って行く。
隋神門を振り返る。
さらに登って行く。
神楽殿。
角度を変えて見る。
もう一段登る。
神楽殿を振り返る。
拝殿。
奥に本殿と末社。
本殿説明板。
為朝神社へ。
途中で白山城登城口があったが、熊注意の看板に怯えて素通り。
白山城説明板。
武田信義館の要害として築かれたと云う。
こんなに厳重な金網が築かれる程だと、さらに怖くなる。
すぐに為朝神社が見えてきた。
為朝神社。
説明板。
武田信義が祀ったと云う。
武勇に優れ、大暴れした後追討を受け、琉球の王になったと云う伝承を持つ。
御朱印。
少し下りた所で、また新府城が見えた。
白山城登りたかったなぁ~
春に訪れたい武田信義館でした。
石神井城(武蔵国)
最寄駅は西武池袋線石神井公園駅。
平成25年(2013)3月14日から横浜からも乗り換えなしで行けるようになった。
約10分歩いて都立石神井公園に到着。
案内板。
石神井池。
オナガガモ。
バン。
他にも野鳥がいます。
池のほとりには雑木林が広がります。
のどかだニャ〰
メタセコイアとラクショウの並木道。
色づくもみぢ。
逆光のもみぢ。
露出を変えて。
石神井池の西端南に練馬区立石神井公園ふるさと文化館があります。
ねり丸がお出迎え。
常設展示室へ。
豊島氏のコーナー。
石神井城域模型。
練馬大根。
旧内田家住宅。
館内1階に「エン座」という武蔵野うどんが食べられる店があります。
かなりおいしいです。
ふるさと文化館の西側は石神井城の土塁をイメージ。
城柵。
本当の石神井城はさらに西にあった。
近くの石神井図書館の地下の郷土図書館には石神井城の模型があったらしいが、ふるさと文化館の開設とともに無くなってしまったらしい。
戻って、石神井池の西側の三宝寺池へ。
三宝寺池には国指定天然記念物の沼沢植物群落がある。
説明板。
どれどれ。
う〰ん、わからん。
5月に再訪。
蓮。
説明板の反対側に石神井城古碑。
【石神井城趾史蹟碑】
水鳥鳴き蛍に名を得たる當石神井城趾は、其昔、豊島の豪族代々此の池を中心に附近一帯を居城となせしが、文明9年豊島勘解由左衛門尉泰経の代に至り、長尾景春は管領上杉顕定に叛き武蔵相模の同志と相謀り兵を興すに及び、當城主泰経及平塚城主なる弟平右衛門尉泰明と共に景春に應じ、江戸河越の通路を断ちしかば、江戸在城扇谷上杉定正の臣太田道灌兵を率て平塚城を攻め城下に火を放つとの報により、泰経直ちに之を救んと當城並び練馬城の兵を率て馳向く途中、江古田ヶ原沼袋にて太田の軍と遭遇、激戦数刻にして遂に泰明及板橋赤塚の一族百五十有余名討死す。
太田勢は時を移さず練馬及當城に攻め入れば、豊島勢善く戦しも衆寡敵せず城遂に陥落す、時に文明9年4月18日の事なり。
星移り物変り春秋を重ぬる事500回、天地の悠久に比すれば人生蜉蝣の如く興亡轉む夢の如し、往時を顧る者坒なく年経るにつれ此の郷土の貴き史蹟を忘れらるのを惜みて之を磐に鐫して後世に傳ふ。
昭和12年6月
平成25年(2013)3月14日から横浜からも乗り換えなしで行けるようになった。
約10分歩いて都立石神井公園に到着。
案内板。
オナガガモ。
バン。
他にも野鳥がいます。
池のほとりには雑木林が広がります。
のどかだニャ〰
メタセコイアとラクショウの並木道。
色づくもみぢ。
逆光のもみぢ。
露出を変えて。
石神井池の西端南に練馬区立石神井公園ふるさと文化館があります。
ねり丸がお出迎え。
常設展示室へ。
豊島氏のコーナー。
石神井城域模型。
旧内田家住宅。
館内1階に「エン座」という武蔵野うどんが食べられる店があります。
かなりおいしいです。
ふるさと文化館の西側は石神井城の土塁をイメージ。
城柵。
本当の石神井城はさらに西にあった。
近くの石神井図書館の地下の郷土図書館には石神井城の模型があったらしいが、ふるさと文化館の開設とともに無くなってしまったらしい。
戻って、石神井池の西側の三宝寺池へ。
三宝寺池には国指定天然記念物の沼沢植物群落がある。
説明板。
う〰ん、わからん。
5月に再訪。
蓮。
説明板の反対側に石神井城古碑。
【石神井城趾史蹟碑】
水鳥鳴き蛍に名を得たる當石神井城趾は、其昔、豊島の豪族代々此の池を中心に附近一帯を居城となせしが、文明9年豊島勘解由左衛門尉泰経の代に至り、長尾景春は管領上杉顕定に叛き武蔵相模の同志と相謀り兵を興すに及び、當城主泰経及平塚城主なる弟平右衛門尉泰明と共に景春に應じ、江戸河越の通路を断ちしかば、江戸在城扇谷上杉定正の臣太田道灌兵を率て平塚城を攻め城下に火を放つとの報により、泰経直ちに之を救んと當城並び練馬城の兵を率て馳向く途中、江古田ヶ原沼袋にて太田の軍と遭遇、激戦数刻にして遂に泰明及板橋赤塚の一族百五十有余名討死す。
太田勢は時を移さず練馬及當城に攻め入れば、豊島勢善く戦しも衆寡敵せず城遂に陥落す、時に文明9年4月18日の事なり。
星移り物変り春秋を重ぬる事500回、天地の悠久に比すれば人生蜉蝣の如く興亡轉む夢の如し、往時を顧る者坒なく年経るにつれ此の郷土の貴き史蹟を忘れらるのを惜みて之を磐に鐫して後世に傳ふ。
昭和12年6月
史碑の裏。
三宝寺池の南側が石神井城。
橋を渡って石神井城へ向かいます。
橋を渡った所に城址碑。
説明板。
登って行く。
登って振り返る。
石神井城主郭に到着。
(写真は2回目のもの)
絵が無かったらまったくわからん。
引いて見る。
(写真は2回目のもの)
戻る。
石神井城の中心内郭跡説明板。
地図を拡大。
石神井城主郭跡説明板。
もう一つの説明板。
東京都指定史跡
【石神井城跡】
指定 平成23年6月9日
石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。
石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北350mの規模の主廓と外廓からなる、比較的単純な構造の中世城郭です。
昭和31年(1956)以降の数次の発掘調査によって、主廓や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。
文明8八年(1476)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。
落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。
平成24年3月建設
東京都教育委員会
三宝寺池の南側が石神井城。
橋を渡って石神井城へ向かいます。
橋を渡った所に城址碑。
説明板。
登って振り返る。
石神井城主郭に到着。
(写真は2回目のもの)
絵が無かったらまったくわからん。
引いて見る。
(写真は2回目のもの)
戻る。
石神井城の中心内郭跡説明板。
東京都指定史跡
【石神井城跡】
指定 平成23年6月9日
石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。
石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北350mの規模の主廓と外廓からなる、比較的単純な構造の中世城郭です。
昭和31年(1956)以降の数次の発掘調査によって、主廓や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。
文明8八年(1476)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。
落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。
平成24年3月建設
東京都教育委員会
普段は立入禁止。
覗いてみる。
年一回(11月)公開されているようだ。
(以後、しばらく写真は2回目のもの)
パネル展もやっていました。
内堀跡。
堀説明板。
土塁に登る。
土塁説明板。
出土品説明板。
主郭内部へ。
文献資料にみる石神井城。
内郭1。
内郭2。
主郭の様子。
カラスを捕獲する罠。
石神井城はカラスの楽園になっている。
主郭南側土塁の東側。
ここで土塁は切れている。
南側土塁。
土塁の南側に道が見下ろせる。
東側は土塁が崩されて民家との境に塀が建っている。
北東端。
北側もフェンスで仕切られている。
もう一度主郭を見る。
北西端の土塁上から三宝寺池から登ってきた所を見下ろす。
土塁上を南へ。
もう一度内堀跡。
主郭跡を出る。
主郭の西側には氷川神社が鎮座。
(写真は1回目に戻る。)
いそぐとも拝んで通る宮の前。
氷川神社境内。
ここも郭跡だったようだ。
氷川神社御朱印。
境内を出る。
境内の西側へ。
三宝寺池への階段を下る。
石神井城は池から見ると一段高い。
ちょっとトイレへ。
えっ
???
変なトイレ
見上げれば燃えるようなもみぢ。
北西端から南を見る。
道の東側は堀があったとか。
旧早稲田通りと交差。
家々は堀跡に建っていると云うが、全然わからなかった。
ここから下る。
この辺りが南西端かな?
上御成橋。
石神井川が南の外堀。
氷川神社参道入り口。
三宝寺へ。
説明板。
御成門。
徳川家光が狩猟の際に、この寺を休憩所としたのに由来。
境内案内図。
境内の様子。
本堂を囲むような高台も郭跡かな。
八十八ヶ所お砂踏み霊場がある所は土塁跡にも見える。
三宝寺本堂裏の平坦地。
主郭の南側に位置する。
(写真は2回目のもの)
三宝寺を出る。
長屋門は、成増の兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門を移築したもの。
三宝寺の東側は道場寺。
豊島氏の菩提寺。
説明板。
道場寺の西側。
石神井城の東側の堀への道。
この辺りが東側の堀だそうです。
堀の西側の切岸。
登った所は三宝寺の本堂の裏。
突き当たりの長屋門。
長屋門から東側の堀を見る。
主郭の方へ。
主郭南側の土塁の所まで戻って来ました。
この道も堀跡。
(写真は2回目のもの)
主郭を見る。
(写真は2回目のもの)
雨の日はこのように見えるとか。
ぐるーっと一周しました。
最後にもう一度三宝寺池へ。
ここが23区内とは思えない景色。
池の北側に殿塚。
説明板。
姫塚。
説明板。
悲話に因んで、毎年4月の第4週目の日曜日に照姫まつりが開催される。
(史実では無いらしいが…)
11月初めに訪れるべき石神井城でした。
覗いてみる。
年一回(11月)公開されているようだ。
(以後、しばらく写真は2回目のもの)
パネル展もやっていました。
堀説明板。
土塁説明板。
文献資料にみる石神井城。
カラスを捕獲する罠。
石神井城はカラスの楽園になっている。
主郭南側土塁の東側。
ここで土塁は切れている。
南側土塁。
土塁の南側に道が見下ろせる。
東側は土塁が崩されて民家との境に塀が建っている。
北東端。
北側もフェンスで仕切られている。
もう一度主郭を見る。
北西端の土塁上から三宝寺池から登ってきた所を見下ろす。
土塁上を南へ。
もう一度内堀跡。
主郭跡を出る。
主郭の西側には氷川神社が鎮座。
(写真は1回目に戻る。)
いそぐとも拝んで通る宮の前。
氷川神社境内。
ここも郭跡だったようだ。
氷川神社御朱印。
境内を出る。
境内の西側へ。
三宝寺池への階段を下る。
石神井城は池から見ると一段高い。
ちょっとトイレへ。
えっ
???
変なトイレ
見上げれば燃えるようなもみぢ。
北西端から南を見る。
道の東側は堀があったとか。
旧早稲田通りと交差。
家々は堀跡に建っていると云うが、全然わからなかった。
ここから下る。
この辺りが南西端かな?
上御成橋。
石神井川が南の外堀。
氷川神社参道入り口。
三宝寺へ。
説明板。
徳川家光が狩猟の際に、この寺を休憩所としたのに由来。
境内案内図。
本堂を囲むような高台も郭跡かな。
八十八ヶ所お砂踏み霊場がある所は土塁跡にも見える。
三宝寺本堂裏の平坦地。
主郭の南側に位置する。
(写真は2回目のもの)
三宝寺を出る。
長屋門は、成増の兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門を移築したもの。
三宝寺の東側は道場寺。
豊島氏の菩提寺。
説明板。
石神井城の東側の堀への道。
この辺りが東側の堀だそうです。
堀の西側の切岸。
登った所は三宝寺の本堂の裏。
突き当たりの長屋門。
長屋門から東側の堀を見る。
主郭の方へ。
主郭南側の土塁の所まで戻って来ました。
この道も堀跡。
(写真は2回目のもの)
主郭を見る。
(写真は2回目のもの)
雨の日はこのように見えるとか。
ぐるーっと一周しました。
最後にもう一度三宝寺池へ。
ここが23区内とは思えない景色。
池の北側に殿塚。
説明板。
説明板。
悲話に因んで、毎年4月の第4週目の日曜日に照姫まつりが開催される。
(史実では無いらしいが…)